「多屋孫次郎」についてのダイアローグ

対談


多屋光孫 M)「さしすせそ」が終わって、今日は「た」

濱中伸幸 N)前々から言ってた「多屋孫書店(多屋光浩の実家の本屋 今年で108 年目?)」をテーマにしたら

M)そうね、創業者はおじいちゃんの多屋孫次郎。会ったことあったっけ?

N)ないない。

M)いやあるよ!昔店に来てたもん!

N)ああ思い出した!

M)杖ついて、少し痴呆も入ってた老人。

N)着物来てたよね。

M)牛乳瓶の底みたいなメガネかけてた。

N)何歳まで生きてた?

M)80半ばくらい。

N)その時みっちゃん何歳?

M)小学6 年生。小学校の後半は寝たきりだっから。覚えているのは幼稚園の頃。
店の裏に納屋があったの覚えている?

N)覚えているよ。

M)納屋でみんなで遊んでいたら。「ねこ、おるか?」っておじいさんがやってきた記憶が残っている。
俺のこと「ねこ」って読んでた。物心ついた時はただのボケたおじいさんだった。


N)お店の裏でよく遊んだね。

M)そのボケたおじいさんがお店にいた時に、お客さんの買い物にテキパキとレジを打って対応したのを鮮明に覚えている。急にシャキッとして何百何十円ですって、何かが乗り移ったようでびっくりした。

N)よく覚えているね。

M)そうそう、一番上の兄貴が書いた文集が残っていて、中身が多屋孫次郎伝って感じ。「我が家の歴史」ってタイトルで、小学5 年の時に書いたもの。どう考えても小学生が書いた内容じゃなくて、多屋孫次郎が話したことを書き写したんのだと思う。

N)中身はどんな感じ?

M)ひいじいさんが孫八っていうところから始まり、いつから多屋姓を名乗るようになったかとか、多屋孫次郎は7歳の時に母に死なれ、多屋林業にあずけられたとか。
クラスの文集22ページのうち9ページ使って書かれている。特におじいさんの孫次郎の部分がとても詳しく書かれていて、多屋孫書店がどういう経緯で現在に至るかがわかる内容になっているの。

N)多屋孫書店の歴史だ。

M)そうそう。だから多屋孫次郎がまだボケていない時に語ったもの。多屋孫次郎の人生には、彼の大天才、南方熊楠がたびたび登場しているのですよ。
南方熊楠日記の中にも、『多屋孫の子がみかんを届けにきた』『もちを届けにきた』とか記されている。
それは歴史的にはなんの価値もないのだけれど。

N)僕らの住む南新町から歩いてすぐのところに南方熊楠が住んでいたお屋敷あったね。

M)あと、初めて多屋長東店に買い物に来た人のことも書いてあって、愛須洋傘店のおじいさんで、歯磨き粉1個3 銭で今でも忘れられないって。最初は本屋っていうよりは、メリヤス、雑貨、日用品、小間物などを売っていたらしい。

N)雑貨屋さん的な感じやね。

M)そう、最初はいろんなものを売っていて、近所の店と値引き合戦でお互いの店以外の店から苦情がきて。お互いの扱い品目を分けたらしい。その際に相手が文具をやめて、我が家はメリアス、雑貨をやめた。文具専門店として発展する過程で、古本と雑誌だけじゃなくて新刊本も扱うようになった。

N)文具専門店の時代もあったんだ。

M)大正から昭和にかけての話も詳しく書かれている。絶対小学5 年生が一人で書いたとは思えない内容。米騒動のことも書かれている。

N)米騒動は1918 年。

M)書いていることを読むと、
『商売が順調に発展していましたが、早く本店や親類のようになりたいと思って、色々研究した結果、山路(さんじ)や秋津川に良い質の松煙(しょうえん)が産したので、江川の森栗氏や南方熊楠先生のすすめもあり、今の中屋敷の家で墨の元の製造をはじめた。「熊野墨汁製造元」という看板で、そのころの産地、名古屋の製品より良かったので、大変評判がよく、大阪の家門長兵衛(かもんちょうべえという大問屋が製品販売を引き受けてくれたそうです。
 その頃は第一次世界大戦の後で、日本の文具製品がどんどん大陸へ進出していましたので、うちの製品も今の中共の青島や元の満州の奉天の北まで送られることになったので、職人をふやし倉いっぱいに「にわか」を仕入れ、庭は空便でうずまる程、一生懸命に製造したそうです。
 ところが寒さの研究までするのを忘れていたため、暖かい田辺で作った製品は寒い満州ではびんが割れお金がもらえなくなり、仕入れた材料費がはらえず、せっかくの大事業もわずかの間でつぶれ、おじいちゃんはたくさんの借金をせおいこむことになった。
 おじいちゃんは借金を返すために、シャツ一枚で大阪へ行き、車引きをしたり大変な苦労をしたそうです。』
って書いてある。
(松煙墨と墨絵 南方熊楠記念館HP より
http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/2021/01/24/11225)

N)まさしく歴史ドラマを見ているような描写やね。

M)『昭和の初め、家庭婦人雑誌の配達は70 軒、昭和15 年には主婦の友、婦人倶楽部だけで400軒になった。
満州事変の前のころは景気が悪くものが安かったので、出入りの大工さんに勧められて、商売で儲けたお金で土地を買い、貸家を10軒建て、またお米を買わなくてもいいように、上富田に田んぼを2丁買った』こんなことしてたんやね。

N)2丁ってすごいね。

M)『お父ちゃんの子供の頃の暮らしは、おじいちゃんの苦しかった時と変わらず、1 日と15 日が小豆ごはんで、大勢の店の人やお手伝いさんと同じように麦が3割入ったご飯で、おかずも少しだったようです』って書いてる。

N)これ昌兄(しょうにい)が書いてるの?

M)こんなの小学生が書かへんよ(笑)
『お父ちゃんが小学4 年の時に日華事変が起こりました。最初に中番頭さんに招集が来て兵隊に取られ戦場に行き、その後高等小学校を卒業してきた若い店の人も「ちょう用工」として兵器をつくる工場へとられ、店はおじいちゃんと吉田という大番頭のおじいさん2人になってしまったそうです』

N)みんな戦争に駆り出されたんやね。

M)『その後、本や雑誌は注文しても入らず、日本出版配給会社というところから少し配給されるのみで、終わり頃はノートだけになったそうです。
 中学生や女学生も勤労奉仕や動員であまり勉強できなくなり、文理(もり)にできた海兵団の兵隊さんだけがお得意先で、それもたちまち残った商品を売りつくし、せっかく苦労して育てた店も空き家のようになったそうです』
『昭和19 年4 月、東京の大学に行っていたお父ちゃんの兄が戦争反対の考えをもっているということで捕えられ神戸の独房で死んだということです。それでお父ちゃんがお店を継ぐことになったのです』

N)みっちゃんの親父さんにお兄さんがいたんだ。

M)そう、神戸から兄貴のお骨を持って帰る時に『あいつら、いつかやっつけてやる』って悔し泣きしながら帰ったという話を、当時もうすでにボケてしまっていた亡き親父から聞いたことがある。

N)それも凄い話やね。

M)こうやって兄貴の書いた文章を読んでると、まさに多屋孫次郎が自分の人生を孫に書かせた記録やね。いつか、このストーリーを絵本にしたいと思ってる。

M)あっ、墨汁の話知ってる?

N)前に少し聞いた。大儲けしたんでしょ。

M)いやいや、大儲けはしてない。
『およどん盛衰記: 南方家の女たち』神坂次郎 にも書かれている話。
(https://www.amazon.co.jp/ およどん盛衰記- 南方家の女たち- 中公文庫- こ-1-11/dp/4122028337)
 熊楠曰く「西洋にはインクというものがある。墨も液体にしたら儲かるはず。」それを聞いて多屋孫次郎が日本で初めて(これは嘘か本当か分からない)墨汁を作った。今とは違って墨汁をガラスの瓶に入れて売ってた。そして当時日本領土だった満州に輸出をしようとしたのだけど、満州事情に詳しくなかったために、ガラスの瓶が凍って割れてしまった。当時は売れないとお金が入ってこない。だから小説によると『孫次郎の店は~あっけなく倒産した』って書かれている。孫次郎は夜逃げして車引きとかやってたらしいのだが、その後復活して商売やっているから、親父が神坂次郎に多屋孫はまだ潰れてないぞってクレーム入れたらしい(笑)

N)なるほど。すごい話やね。

M)多屋孫次郎は多屋孫書店の創始者。父長三郎の次男。田辺で初めて書店を開いた「多屋長(たやちょう)」兄、長一が多屋長を継いだので、孫次郎は大正5 年12 月2 日に多屋長東店(たやちょうひがしみせ)を開店した。これが多屋孫書店のはじまり。

N)それは南新町なの?

M)今福町。ここに新聞広告がある。

N)今と違う場所でスタートしたのを初めて知った。

M)時系列が飛ぶけど、多屋孫次郎は中学の時に退学になってしまう。
 田辺中学卒業後は東京高等師範学校を出て先生になるつもりだったのが、田辺中学のボート部の練習の帰りに梅林で梅を盗んで捕まったらしい。
 みんなはわーって逃げたのに牛乳瓶の底のような眼鏡をかけるくらい目が悪いせいか逃げ遅れた。
しかも捕まったのが、その時2 回目だったから退学になった。それで、商売の修行では一番厳しい大阪船場の呉服問屋に奉公に出されてしまう。3 年後、多屋長本店が忙しくなったので田辺にかえってきた。
 これってNHK の連続テレビ小説にできないかなあ(笑)

N)丁稚奉公は朝の連続テレビ小説にピッタリ!
(大正12 年12 月2 日の広告)



N)凄い物語になるね。

M)あと、戦後のことも…。
『昭和21年8 月農地改革で田んぼも政府に買い上げられてなくなり、そのころ財産に税金をかけるためお金は全部預金させられて一人毎月百円しか新しく使えるお金を預金から出してくれませんでした。』

N)預金封鎖ってやつやね。まさしく歴史。

M)つづき『そこで、おじいちゃんは平和になったこれからは必ずいろいろ生産がされると信じて、余分のお金を全部商品を作る会社へ先渡しして品物ができたら送ってくれるようにたのんだ。
 その送ってきた商品を新しいお金で売り、株券で払う予定の財産税をお金で払った。その時の株券が10年後何十倍にもなり支店を建てるお金にかわったということです。
畑で麦や芋を作りながら商売も忙しくなってきて大阪までリュックサックをかついで仕入れに行っても、すぐ売切れてしまったそうです。しかしどんどん物価が上がるので売った金額より次の仕入れの方が高く困ったそうです。
 そのころの税務署の役人はいばって大変困らされたので、店を会社にして、おじいちゃんは社長、おとうちゃんが専務になり従業員はたったの4人でした。
 戦前にいた人がほとんど戦死して一人になった。戦後初めて配った教科書は新聞を折りたたんだようなものだったが、言論出版の自由により、いろんな種類の本が出揃ってきて、戦争中の永い間の不自由から解放されたと言っても。まだ景気も十分立ち直っていませんでしたが、紀南の人々は新時代の知識を求めて店に来てくれました。』

N)今日は多屋孫書店の歴史にする?

M)いやいや、多屋孫次郎だけでお腹いっぱい。

N)おじいちゃんの話を孫が書いた文章を振り返った回やね。

M)多屋孫次郎のエピソードを付け加えると、親父もそうだけど、大酒飲みだった。
出版社との宴会でたらふくお酒を飲んだ翌日、朝からご飯にお酒をぶっかけて『さけちゃづけやー』と叫びながら、食べていたらしい。出版社の人が「クレイジー」って言ったとか言わなかったとか(笑)

N)豪快な一面もあったのだね。僕が知っているのはメガネをかけて杖をついている姿しか知らないけれど。

M)今日は我が家のレジェンド「多屋孫次郎」でした。

【会話の主】 登場人物

多屋 光孫(たや みつひろ)絵本作家・挿絵画家。和歌山県田辺市出身。3歳より田辺市の洋画家、故益山英吾氏の洋画研究所で絵を学ぶ。実家は本屋(南方熊楠ゆかりの多屋孫書店)。2015年8月まで二十ん年、普通に会社員(海外営業・広告宣伝など)をやっていたが脱サラし画家活動を開始。一般社団法人 日本出版美術家連盟理事(事務局長)

濱中 伸幸(はまなか のぶゆき) ブランドクリエイター。和歌山県田辺市出身。実家は紳士服店。
元百貨店婦人服バイヤー。2011年株式会社ハッピーアイ設立。HAPPYEYEブログ、エンカラージオンラインショップ企画運営。ファッション専門学校非常勤講師

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