「粘り強さ」についてのダイアローグ

対談

多屋光孫 M)今日は「ね」うーん、「粘菌」

濱中伸幸 N)年金じゃなくて、粘菌といえば、田辺が生んだ巨匠「南方熊楠」

M)熊楠の本はいろいろ出ているけど、どれもなんかしっくりこない。

N)昭和天皇に献上した粘菌の標本をミルクキャラメルの化粧箱に入れてたり、私生活が無茶苦茶だったり、中々実態を描写するのは難しい人なんだろうね。


M)そやなあ?粘菌じゃ話が広がらないね。まあ田辺の話になると、お互い部活して練習三昧だったけど、「粘り強く」取り組んでいたよね。

N)そうね、根性、努力が美しい時代だった。子供も多かったし、テレビの漫画もスポ根ものが多かった。

M)鉄下駄とか、得体の知れないトレーニング道具があったね。

N)それこそ、石段で兎跳びの世界やったね。

M)今は兎跳びなんか身体を痛めるから禁止でしょ。昔はよくやってたけど。

N)あと、部活の途中は水を飲んではいけないルールもあったね。水分補給できないから、口の中が粘り強くなっていた。

M)兎跳びの変則バージョンでカエル飛びもあった。

N)ピョーンとジャンプして、しゃがんでまたピョーンと跳ねる。キツかったやつ。
あとはサーキットトレーニングとかもしんどかった。

M)兎跳びは柔道一直線のテレビで、兎跳びをしているシーンがあったなあ。

N)古いけど、巨人の星のオープニンングでも。

M)古いタイヤをロープで引っ張るシーンとか。

N)粘り強くの前に、根性、根性、ど根性の世界。
そういやど根性ガエル。懐かしいなあ。


M)根性で弱音を吐かずに厳しい練習に耐えることで強くなるという神話のようなものがあったね。技術よりもメンタル重視だったから、当時の日本のスポーツは世界で通用しなかったんだろうね。今みたいな合理的なトレーニング方法が取り入れられていたら、また違った時代になっていただろうね。

N)スポーツの厳しさを乗り越えたものが勝利を掴むみたいな世界だった。必要以上に負荷をかけてしまって、怪我や負傷で潰れていく人も多かった気がする。野球部なんかは夜遅くまで練習してたよね。

M)僕がやっていたレスリング部は午後4時半から6時頃までの90分位だったけど、地獄の90分だった。

N)レスリングの顧問は剣道の顧問の数倍厳しかったからね。うちの剣道部も同じ時間。90分くらいで集中してやるのがいいよね。
僕はもう剣道していないけど、みっちゃんは柔道続けているの凄いね。

M)この前、柔道大会があって、柔道の試合のTシャツをデザインした絡みで50半ばを超えて試合をさせられるハメになった。試合直前に仲間内から「卑怯な技をつかったり、絶対怪我させるなよ」って言われ結構やりにくかったのだが、得意技の一本背負?で勝つことができた。

N)試合に勝つって何とも言えない気分の良さがあるよね。

M)日頃、腰痛やらふしぶしに来ている中で、この年になっても試合ができたということは、すごく自信になったよ。長く続けるられるのって、それだけ値打ちがあるね。

N)スポーツじゃ無いけれど、今年専門学校の非常勤講師をして5年目で感じることは、ようやく自分なりの講師スタイルが出来つつあるように思う。
最初の1、2年目は、いかに教えるかという視点で精一杯だった。よく寝られてしまって辛かった。

M)寝られると気になるよね。僕も講演で寝ている人が目に入ると動揺してしまうことがあったなあ。これも慣れていくうちに平常心で喋れるようになったけど。あと、絵画教室はずっと続けているから、子供達と和気藹々とやってる。
こっちはもう9年目になるなあ。

N)ももくり3年柿8年!

M)そう、柿を超えた!

N)本業の絵本の方も、粘り強くやっているよね。

M)絵本を出したことのある出版社とは継続的に作品を産み続けているのだけど、新しい出版社との取り組みは、中々、大変やなあ。

N)僕もニットの企画生産をしていた時、新しい取引先を開拓するのが一番大変だった。サンプル商品をでっかいスーツケースに詰めて、アパレルのデザイナーにプレゼンするの。全部断られて終わりの場合もあるし、数点ピックアップしてもらっても、最終製品化まで進まないこともあって、提案型営業の辛さを味わった。

M)新規開拓は大変。

N)本当!新規開拓こそ、粘り強さが求めらるよね。

M)新規開拓という言葉とは少し違うけど、毎年個展をやっていて思うのが、粘り強く続けているからこそ、次回の個展にも来てくれる人になる。ファンといえばカッコいいけど、見に来てくれる人がいる幸せを毎回噛み締めているよ。

N)継続は力なり。

M)まさにそう。今は作品と作って、個展を開いて、在廊して販売するサイクルの中で、作品を作る時間をもっと増やしていきたいと思っている。

N)ファッション専門学校で教える中で、色々なデザイナーを調べたり服装史を勉強したりしてわかったことがある。それは天才と呼ばれているデザイナーは誰しも誰かの影響を受けているということ。誰かが、画家だったり建築家だったりするのだけど全くのゼロから何かを生み出しているのではないということ。

M)それはそうだよね。
ゼロから何かを生み出すというより、既存の何かから刺激を受けて生み出す感じ。

N)幼少期に孤児院に入れられていたり、事業の失敗でホームレスになったり、離婚して自分で稼がないから、これらはそれぞれ有名デザイナーの背景なんだけど、割と波瀾万丈な人生を送っている人が多い。でも才能を開花した人に共通するのが、莫大なインプットがあるってこと。

M)そうね、アーティストはそれぞれその人なりの表現パターンがあるけど、アウトプットでモノになるのって全ての表現の数パーセントだからね。

N)いかに表現のもととなる情報を取り入れて自分なりに昇華するかが大切なんだろうけど。それが楽しくて楽しくて粘り強くやり続ける人が大きな花を咲かすのだろうね。

M)お互いこれからも粘り強くやり続けましょう!

N)11月の個展に行きます!楽しみにしています!

(個展の案内)
http://mt.voog.com/zhan-shi-hui-qing-bao


【会話の主】 登場人物

多屋 光孫(たや みつひろ)絵本作家・挿絵画家。和歌山県田辺市出身。3歳より田辺市の洋画家、故益山英吾氏の洋画研究所で絵を学ぶ。実家は本屋(南方熊楠ゆかりの多屋孫書店)。2015年8月まで二十ん年、普通に会社員(海外営業・広告宣伝など)をやっていたが脱サラし画家活動を開始。一般社団法人 日本出版美術家連盟理事(事務局長)

濱中 伸幸(はまなか のぶゆき) ブランドクリエイター。和歌山県田辺市出身。実家は紳士服店。
元百貨店婦人服バイヤー。2011年株式会社ハッピーアイ設立。HAPPYEYEブログ、エンカラージオンラインショップ企画運営。

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